『みんな違う』を、本当に受け入れるということ

違うまま、一緒にいる。
人と考えや意見が違うのは当たり前。
「そういう考え方なんですね」
「そういうふうに感じるんですね」
それで終わりでいい。
自分が正しいと証明したり、
相手を言い負かしたり、
同じ考えにさせようとした瞬間から、
争いが始まる。
みんな違う。
それが普通なんだと思います。
でも最近、もう一つ思うことがあります。
「あなたはそのままでいい」
「嫌なら離れていい」
「無理しなくていい」
そんな言葉に救われることはたくさんあるし、
自分を守るために逃げたり、離れたりすることも、
とても大切な選択です。
でも、
自分を大切にすることと、
自分にとって不快なものをすべて遠ざけることは違う。
本当に「みんな違う」を受け入れるなら、
自分とは合わない考え。
ちょっとイラッとする言葉。
納得できない価値観。
そんなものに出会ったときにも、
「私はそうは思わない。
でも、この人はそう思うんだな」
と、一度自分の中に置いておける力も
必要なのかもしれません。
人は一人では生きていけないじゃないですか
家族、学校、職場、地域。
心理的な距離は離せても、
物理的には離れられないこともあります。
そんなときに必要になるのが、
踏ん張る力だったり、
我慢する力だったり、
折り合いをつける力だったりするのだと思います。
私は、人の「器」って、
心地いい感情だけで広がっていくものではない気がしています。
思い通りにならない。
悔しい。
腹が立つ。
嫌だ。
納得できない。
そんな、できれば味わいたくない感情も経験しながら、
それでも自分を失わずにいられた経験。
その積み重ねが、
少しずつ人の器を広げていくのかもしれません。
逃げないことが正しいわけでもないし
嫌なら離れることだけが正しいわけでもない。
離れることもできる。
踏ん張ることもできる。
受け入れなくても、共に生きることもできる。
自分とは違うから排除するのではなく、
違うまま、一緒にいる。
そしてその中で、
「じゃあ私はどうする?」と自分で選んでいく。
それが本当の意味で
「みんな違う」を受け入れるということなのではないでしょうか。
そんなことを、夏の終わり。
生徒さんと「多様性の教育」について語り合ったことをきっかけに、私なりに考えてみました。


